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2005年 12月 13日
京都でまた子どもが犠牲になった。報道の中で気になった事がある。加害者と被害者の関係が「馬が合わなかった」と言うような表現である。大人が思う以上に、子どもは先生という存在を大きく高いもののように思っているものだ。彼女が加害者に対して、報道されているような反発があったとしたら、そこには加害者側の行動によっぽど問題になる行動があったと私は思う。
はっきり言えば女として本能的に危険を感じるような・・・。人の好き嫌いの範疇は越えていると思われる。が、多くの場合、大人はそれに対して「子どもの我侭、神経質」というような決めつけをしていなかったか?残念ながら子どものサポートの現場にはいってくる男性の中には違う目的を持った人間が入ってくる。十分な注意が必要である。女が見れば感じるものがあるのだが。このような事で傷付いている子は大人が思う以上に多いのが実態である。この事件を教訓に現場の見なおしをして頂きたいと思う。その目で見れば周囲にもわかるものだと私は思う。 雇用者の責任を考えれば、人を採用する場合、学歴だけでなく「人間」を見てもらいたい。見る目を持ってもらいたいと切に願う。何らかの処分をする場合には充分な配慮が必要で、こういう人間は自尊心が異常に高かったり、逆恨みをしたり、ストーカーになったりするタイプが多いので、まずい対処はかえって今回のような事態を引き起こしかねない事を知っていただきたいと思う。 私の経験でもロリコン教師や幼児性愛者の教師がいる事を知っている。実の親に性的被害を受ける子もまれではないのである。十分な注意が必要で、周囲の大人は子どもの様子をよく見て、話しやすい関係を常日頃培っていて欲しいと思う。思春期になって性的非行などに走る子や、人格障害を起す子、などに、実はそれまでに性犯罪の被害経験がある子が多いという統計もある。 証言も得られず実証する事が難しいため、表ざたにならないこういう許しがたい犯罪があるという事を心に留めていて頂きたいと思う。 何かがあった時、何もかも子どもの責任、子どもの未熟さに原因を帰結してしまう事が多いが、子どもが起す「問題」の後ろには、必ず「大人」の間違った行動が反映していると言って間違いはないのだという事を心に置き、いろんな問題の解決にあたっていただきたいと思う。 いじめをはじめ、子どもが起す問題を、本当の問題点を洗い出す「チャンス」と捉え正しい対処をして頂きたいと切に願うものである。 私の知っている例でも、被害者の子が異常を起し、だだその症状だけを問題にされ、精神病院で薬づけにされている例がある。精神科医は薬でもうける事を考える前にその背景を知る努力をして頂きたいと切に願う。 不登校をしている子どもの例でも、いまだに、不登校を精神的問題にされ、ひどい目に合っている子がいる。親にはしっかりしていただいて、社会の偏見や、1部の、専門家と自称する、実態を知らない、知ろうともしない無責任集団に利用されたり、だまされたりしないで頂きたいと切に願うものである。 不登校は病気ではない!実際、まわりから病気に「されてしまう」事はあるが・・・。 私達が防がなければならないのは「不登校」ではない「不登校を起さざるを得ない状況」や子ども自らが持つ権利を「侵害」する社会構造の子どもへの「圧力」であると私は考えている。 世の中で一番大切なのはなんであろうか? 少なくとも「学校に行くことだけ」ではない事だけは確かである。 大人にはしっかり考えて頂きたい。自分がいったい何を見失っているかを・・・。 #
by yuispace
| 2005-12-13 14:56
2005年 12月 07日
福岡でまた信じられない事が明るみに出た。18年もの間不就学児のままであったという。これを不登校と言う神経がわからない。今の所母親だけが問題とされているようだが父親も兄弟もいる家庭らしい。学校がこの問題にたいして「不登校児の家庭に強制的にはいらなくては!」と言うような発言をしているがお門違いもはなはだしい!そんな事をしたら何人の子どもや親が死ぬ事になるか考えるだに恐ろしい。今年の二学期の前後だけでも不登校もできずに6人の子ども達が九州では死んでいるのだ。
万に一つもない事例で多くの人間がまた人権侵害を受ける事になるのではないかと思うと空恐ろしい。この事件も公の不作為がそもそも問題なのだと思うが、結局被害を受けるのは一般の市民なのだと思う。 この事件を私の想像と偏見で見れば、問題は「障害者やその家庭に対する社会の偏見」がその根源にはあると思う。不登校も1部社会的認知に、同じ側面を持つが、ようは「先祖の祟り」「親が妊娠中に不注意」「遺伝的になにか問題が」「親の躾のせいじゃないか」(自閉症やLDなどの障害の場合)のような無責任な色眼鏡で見られ、言われ、兄弟は学校や地域でそれを原因にいじめられたり、結婚に障害が出たり・・・。 こういう社会の不見識さがこのような事件を引き起こすのだと私は思う。 例えばあかちゃんの検診に行って「二度と保健所なんかいかない!!!」という親は多い。保健所さえすでに監視、選別の場になっているからだ。基準から少しでも遅れていたり、小さかったりすると、さも一生の問題であるかのごとく表現する係員がまだまだいる。あるお母さんなど、子どもが転んであざが少しあったら、身長を計る場所、体重を量る場所、なんと6個所で「このあざはどうしましたか?」と聞かれたという。福岡の場合もそうだが、本当に子どもの事が心配ならまず「母親」を大切にしないと問題は決して解決しない!と云うことをまずわきまえてほしいものだ。親を責める事で仕事をしたような気になる多くの人がいるのが現実である。 たぶんあの母親もそういう目に合いつづけた結果ではないかという気がする。 建物の検査のような肝心な部分さえ民間に投げるなら、こういうビビッドな人間関係を長期にわたって構築しなければならない事例こそ民間につなげて欲しいと切に願う。 もちろんお金は公もちで。(苦笑) 虐待問題などは親が決して依頼もしなければお金も払わない。ただ、子ども救いたい!と手弁当で貧乏に泣きながら?走っているものに対して、自分は給料をもらいながら、『「料金」を取る所は紹介できません!』などとのたまう○○員さま!その分あなたたちが出してよ!と、ついでに怒っておこう!(苦笑)見てないと思うから。(爆) #
by yuispace
| 2005-12-07 20:59
2005年 11月 29日
今、建築業界がゆれている。誰が悪いかを押し付け合い、被害者面したがる人達のために本当の被害者が置き去りにされている。この件で私が一番感じるのは自分の「仕事」「使命」を見失った人達への怒りと、それを見ない、忘れないと生きて行きがたい社会のあり方である。
私がビルを建てる一員であったとしたら、高層ビルを立てるのにもかかわらず鉄筋の数が少ない事に対して疑問を持つ。きっと現場ではそれに気が付いていた多くの人がいたのは間違いないと思う。コンクリートの関係にいれば、コンクリートの量が異常に少ない事は明白であったろう。みんな知っていながら問題にしなかったとしか思えない。 それほど当たり前の事であったのではないか?とさえ思う。 いろんな会社が色々な事を言っているが、故意ではなかったにしろ、そもそも「わからなかった」こと自体に問題があるのだ。 調べてみたらいい、関係会社の人間は決してそこには住んでいないと私は思う。 逆にいえば、建てるのに関係した会社の人間が入居している所は安全性が高いかもしれないと思う。 その人達はそれぞれ自分の仕事をどう捉えていたのであろうか?お金を儲ける、もらうのが仕事ではない。そういう仕事をしている人にとって「安全」は今更言うまでもない人としての逃れようの無い「責任」「仕事」である。 前にも書いたかもしれないが、私の父は鉄道員であった。事故を起さない、無くす事に、生涯を掛けたと言っていいかもしれない。それを評価され、60才を前に皇居に行って来た人である。 残念ながらそれからしばらくしてガンに倒れたがそれ以降もその会社は無事故を続けた。 その根本たる考えは「人作り」であった。 今、私が子どもに関連する仕事をする中で、一番思うのは、「今の教育は人を作っていない」ということである、子どもは学校や教師が存在するための「道具」でしかないと思う事がある。 あるいは「親」の評価の基準であったりする。 長田百合子という人がいる。ひきこもりや不登校をしている子を「たちなおらさせる」といい、多額の金銭を親から取り、子どもを換金、監禁したりしていながら、マスコミであたかも賞賛されるべき存在であるかのごとく取上げられている。 先日などは「朝まで生テレビ」に出演し、つじつまの合わない非論理的な主張で本当の意味での識者たちに顰蹙を買っていた。 伝聞なので正確な数字であるかに付いては私も知らないが、本当の意味での成功率は10分の1だとか聞いた。親の資金が続かない、立ち直らない?人に関してはいろいろな理由「親があれでは」とか「もっと早くに来ていれば」とか彼女は言うらしい。 ある人は「ここから出るためにはどんなことでも出来る」と思ったと言う。 刑務所では静かにしていて仮出所をねらう囚人の言葉のようだと私は思う。 犯罪を犯しているわけでもない人間にたいしてそれは正当な処遇であろうか?と私は思う。 私の立場から言えば、ほっておいても多くの人は早期に社会に戻る。というか、いらぬ事をしないでおけたら、それが一番結果を出すのではないかと正直思ったりしている。 しかし、親自身が追い詰められる今の社会で、子どもを見守れる親が何人いるだろうか? 問題はそこであろうと私は思う。 大人の責任、仕事はなんであろう? 自分を押し付ける事?自分達に都合のいいルールを押し付ける事?自分にただ従うだけの人間を育てること?自分で考える事を認めないでいて、考える力がつくはずはない。 最初に書いた信じられない無責任集団もこの延長線上にある!と私はとらえているのだが。 「人が幸せに生きる為に必要な事はなにか?」を常に考えて歩んで行きたいと思う。 #
by yuispace
| 2005-11-29 19:08
2005年 11月 25日
以前からいろんな人に「本を書いたら?」と薦められていいる。多くの人に知ってもらえたらいいだろうなあと私も思う事はいっぱいある。しかし…。
誰のと指摘は出来ないが不登校などに関してもいろんな本があるが、その中の一部の本の内容には焚書してやりたいような(苦笑)事実誤認、狭い視野、作者の自己欺瞞、偏見、都合などにゆがめられたものも多い。 それを読む事によって傷つく人がいるのは間違いないし、間違った対応を教えられてひどい状態を招く事もあると、自分の経験からも言える。 人は一人一人みんな違うし、その組み合わせしだいで状況はかなり変わってしまう。現実は流れているもので簡単に見えないにしても必ず変化していると私は思う。その中で大切なものは1つの過去の事実ではないと私は思うのだ。 「かたよらない心。こだわらない心。とらわれない心。 広く広く、もっと広く」と般若心経の心を説いた高田好胤師のおられた薬師寺で若い頃、色々な学びをさせていただいた事があるが、その時の経験がいま私の心の中で大きな部分を占めている。 しかしそれも、自分自身が「苦」の中にはまり込んでいた時には、まったく忘れ去っていた…。私が今いろいろな人との関わりに常に「第3者」の役割を重く見るのはそのためである。 自分は一人で生きてきた!という人もいるが果たして本当にそうであろうか?直接ではないにしても人は過去、現在において、多くの人との関わりなしでは生きていない。例えひきこもりをしていたとしても、である。その事実に一人一人が気が付いた時、世界は変わる!と私は思っている。 その意味で、どんな時も「人は決して一人ではない」し、「他人事(たにんごと)」などは事実上ないのだと思う。その中で「自分には何が出来るか」を考えた時、そこに「道」はあるのだと思う。 「道」を見失ってしまったと思った時、ぜひそれを思い出して欲しい、生きて欲しいと切に願う。 今日テレビで俳優の緒方拳さんが自分の師である島田正吾さん(90歳を越えて現役の役者であった)の事を話しておられた中に「型と心」という話があった。 簡単に言うと演劇において、「いくら心があっても型に表さないと伝わらないし、型だけでは心は伝わらない」と言う事であろうか。多くの人に共通の形が「型」と言うものだと思うが、演劇だけにかかわらず、人と人のコミュニケーションにおいても言える事だと私は思う。 私がよく言う「私はただの通訳です」と言うのは、まさに、「いかに愛情を伝えるかの型」を見失った現代において「型」を伝えているのだと思う。 いくら多くの愛情を持っていても、それを相手に伝えるには、お金や物ではない何かが必要なのだと思う。多くの人はお金や物という形だけで心が伝わると思ってはいないか?心があれば形などなくても伝わると思ってはいないだろうか?私は今の人が抱える多くの問題はここから起こって来ていると思う。昔はみんな無意識ではあるがちゃんとした型を持っていたのではないかと思っている。心は今も昔もあるのだと私は信じたい。 #
by yuispace
| 2005-11-25 18:04
2005年 11月 17日
11月に入り、霜がおりた野菜たちの味がすばらしい。我が家の無農薬野菜たちは主人が毎朝手で虫退治をしてくれたおかげでさして虫害もなく、今からが旬である。白菜、しろな、きくな、大根、ちんげんさい、キャベツ、ねぎetc。みかんの収穫もようやく始まり、いよいよ忙しくなる。
遠来の友人と話していたのだが、例えば「すき焼き」にいれる具、江戸っ子である彼女は「肉、しらたき、ねぎ」を入れるものがすき焼き!以外のものを入れたものは「すき焼き風煮物である!」と譲らないらしい。その彼女でも、人の料理にちゃちゃは入れず、大した物でもないのに美味しいと食してくれるのがありがたい。仕事で付き合わざるを得ないある人は、人が物事をどう感じるか?まで指図しないと気が済まない人である。正直しんどい…。良い人であるのは保証付きであるのはわかっているのだが。(苦笑) 私といえばすぐむきになる癖が年をってもなおらない…困ったものである。これも使いどころしだいでは有効な資質であるとも言えない事はないらしく使っていただける事も多いのだが。 ことほどさように、人も道具も自然界のいろいろなものたちも、時期や場所というか、使いどころを得たら自分のもっともいい面を発揮出来るのだと思う。 いまの社会はもしかしてそういう大切なものを見逃してはいないかと思っている。個性尊重の一番の鍵はそこではないか?一人の人間にオールマイティーを求めてはいないか?冬に西瓜を求めてはいないか?ニートなどと騒がれるたびに思う。夏になるまで待てないの?と思う。温室栽培や促成栽培は果物や野菜だけにしてほしいものだと思う。人間にそれは効かんよ!と思う。それと、作物を育てるのに、肥料をいつもどっさり与えれば良く育つと思っている人がいるが、実はそうではない。いくら美味しくても毎日フォアグラやふかひれを食べ続けなくてはいけなかったらそれは拷問でしかない。作物もそうである。かえってまともなものは出来ない。学校の今の状況も同じではないかと思ったりするのだが・・・。皆さんはどう思われるだろうか?教師や親になる前に3年間、農業を必須にしては?と思うゆえんである。 #
by yuispace
| 2005-11-17 17:08
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